東大生が教える 誰でも“論理的に”幸せになる方法

職場、友人、日常生活、恋愛などなど世の中には上手くいかないことが溢れかえっています。これらに“論理的に”立ち向かって、幸せを掴むためのブログです。

忙しいときのおそうじ ーコツコツできれば苦労はないー

 

ー自分の精神状態と部屋の汚さには相関があるー

 

こんなこと、聞いたことありませんか。

 

 

その根拠は、一体どこにあるのでしょうか?

 

たとえば

 

「部屋の汚れといった小さな乱れが、より大きな乱れにつながってしまう」

 

この大きな乱れが、あなたの精神の乱れである。

 

要約してしまえば、そういったことを書いてあるブログがあふれています。

 

 

しかし、本当にこれは正しいのでしょうか?

 

 

これらのブログの根拠となっているのは割れ窓理論(Broken Windows Theory)」という理論です。

 

この理論は簡潔に説明すると

 

「ある建物の窓が割れているのを放置すると、誰もその建物に注意を払っていないということを意味するため、ほかの窓もやがて割れてしまう」

 

という理論です。

 

しばしばこれは「小さな乱れを放置すると、人々のモラルが低下して、結果として大きな乱れにつながる」と理解されることがあります。

 

それが「部屋の汚れといった小さな乱れが、より大きな乱れにつながってしまう」という前述の理解に繋がってしまうのです。

 

しかし、お気づきかとは思いますが、この割れ窓理論は、匿名性(誰がやったかわからない状況)のもとで、乱れの責任が不明確だから起きるものです。

 

したがって、部屋の汚れといった、責任の所在が明らかな問題に引用するのは、少しずれているといえます。

 

 

ですが、このような言説が多くの人の共感を呼ぶのは、そこにひとつの真実があるからです。

 

その真実とは「綺麗な部屋にいると精神的に落ち着く」というものです。

 

たとえば大掃除したあと、たとえば綺麗な旅館に泊まったとき

 

整理整頓された空間で、どこか落ち着きを覚えませんか?

 

だからこそ、みんな「部屋を綺麗にすることはいいことだ」という観念を持っているのです。

 

 

しかし、そこにひとつ落とし穴があります。

 

 

「部屋を綺麗にすることはいいこと」

 

であることは

 

「部屋がちょっと汚いことは悪いこと」

 

と同じなのでしょうか

 

 

すこし、ここ最近のことを思い出してください。

 

 

部屋を掃除しなきゃ

 

でも、忙しくてできない

 

今日もできなかった、明日やろう

 

またできなかった……

 

 

こうした心の負のスパイラルに、陥ってはいませんか?

 

落とし穴というのは、「部屋を綺麗にすることはいいこと」という考えが

 

「部屋は綺麗でなくてはならない」という強迫観念に変わり

 

知らず知らずのうちに、自分を追い込んでしまうことなのです。

 

 

部屋が綺麗であることは、確かにとても素晴らしいことです。

 

もちろん、部屋を綺麗にすることで、精神的にもどこかスッキリするでしょう。

 

けれども、だからといって、部屋が少し乱雑なくらいで自分を責める必要はないのです。

 

 

部屋の掃除には、エネルギーが要ります。

 

ちょっと早く帰れた日、ちょっとゆっくりできる日

 

きっとそういう日のあなたが、頑張ってやってくれるはずなのです。

 

なのですから、忙しい日々の自分を必要以上に追い詰めることはやめて

 

ちょっとくらい乱雑な部屋でも、心穏やかに過ごしてみませんか?

 

 

真面目なあなたほど、なかなかできないと思いますが

 

真面目にちょっと楽をするのも、大事なことですよ。

 

 

追記

久しぶりの更新となりました。不定期にはなりますが、更新していく予定ですので、今後ともよろしくお願いします。コメント、ブックマークも、是非よろしくお願いしますね。

共感をつくる方法 —無難すぎても仕方がない—

記事の更新が遅れてしまい申し訳ありません。

 

このブログは学業と研究の合間に書いておりますが、なるべくコンスタントに更新するように務めて参りますので、宜しくお願い申し上げます。

 

さて、今回のテーマはズバリ「共感」です。

 

普段、同僚や友人と他愛もない話をしているとき、その人をまわりの人を話に惹きつけることが上手い人だなあ、と感じたことはありませんか?

 

話に惹きつけるというのは、単に話にオチがあって面白い、というのは違います。

 

話を聞いていると、自分でも気がつかないうちに思わず相槌を打ちたくなったり、すごいわかる!と言ってしまいたくなったりする状態のことです。

 

話に惹きつけるのが上手い人は、往々にして人の「共感」を生むのが上手な人なのです。

 

この共感させる能力が最も力を発揮するのが、歌詞です。

 

自分とは違う誰かの話なのに、自分の姿を重ねてしまったり、

 

もしかすると実際に起きた話ではないのに、リアリティを持って感じたり、

 

こうした力が曲の歌詞にはあります。

 

 

共感を生む人は、周囲の人からの視線と、協力を集めることができます。

 

何故なら、周囲の人はあたかも自分のことを深く、問題の根底にある部分まで掬ってくれるような感覚を得るからです。

 

良き理解者と言われる人も、その一人であるということができるでしょう。

 

 

では、「共感」を呼び覚ますためには、どうすればいいのでしょうか?

 

そのコツはズバリ「自分の話を混ぜる」「一般論に偏りすぎない」ことです。

 

もちろん大前提として、あまりにも突拍子のないことは言わないということがあります。

 

さすがに他の人との感覚が大幅にズレていることを言ってしまっては、共感を得ることは難しいです。

 

ですが、かと言ってあまりにもありふれたことを言ってしまっては、逆に共感を得にくくなってしまうのです。

 

ここにひっかかる人が、実は多いのです。

 

例えば、今日はとても寒い日だとします。

 

そこで周囲の人との感覚を合わせたことを言おうとするあまり

 

「今日は寒いねー凍えそうだよ」

 

と言ってみても、あまりにありふれているうえ、その発言に「あなた」がどこにもいないため、共感をしようにも誰にすればいいかわからないのです。

 

お役所から出る文章も、こうした傾向が強いと言えます。もしも公的な文章にあまり共感ができないと感じるならば、それはその背景に「誰か」を見ることができないからなのです。

 

 

では今度は、そこに「あなた」を入れてみましょう。

 

「今日は寒いねーぼくは南国出身だから、めったにこんなに寒くなることはなくて、もうほんとに凍えそうだよ。前にこんな気温だった時は風邪ひいちゃったから、服には気をつけないとね」

 

ちょっとわざとらしい、長い文章ではありますが、前の文章と比べてみてどうでしょうか。

 

とても寒いという状況は同じですが、伝えられる情報には「ぼく」という個人がいます。

 

これは歌詞も同様です。片思いをしている歌なら、その片思いをしている人が、失恋してしまった歌なら、失恋してしまった人がその言葉の背景にはいるのです。

 

そしてだからこそ、人の胸をつかむのです。

 

 

この「共感」を得るテクニックというのは、一日で習得できるものではありません。

 

ですが、日々の生活の中で意識的に試してみることで、いつの間にかできるようになっていますので、是非試してみてくださいね。